生まれた時…ただただ五体満足を願われ生まれてきた私たち。
でも…気が付くと(もう記憶もない頃から)色々な「期待」をかけられて、そしてそれを達成するとものすごく褒められて…達成できないと……
そんな毎日になった気がしませんか?
私たちは、一体いつの間に他者から期待をかけられてしまったのでしょうか?
人の心とは恐ろしいもので…赤ちゃんがまだ見えない「子宮」にいる頃は、多くを望まれてはいなかった気がします。
でもこの世に生まれてきた時から「外見」に始まり…何ができるようになったか?何が優れているのか?この子には何を着せて何を持たせると可愛いか…どうすれば自慢の娘や息子っていうことになるのか…
そんなことで一喜一憂される存在になってしまい…
「期待される」という行為に辟易しながら生きてきたように思うのです。
そんな私も…大変お恥ずかしながら…沢山の期待を息子にかけた気がします。
自分は嫌だったはずなのに…親からの期待があれほど自分を窮屈にしたとわかっていたはずなのに…
私も息子という存在に、うっかりすると期待をしてしまいます。
それくらいに人間は、「無意識なレベルで期待する」という生き物なのだと感じます。
息子が受験するといえば「いい学校に入ってもらいたい!」と思う。
そしてそんな自分にハッとして「私って最低だな」と自分を思ってしまう…
息子がいい大学に入ったとして…私にとって何の意味がある?
本来、息子にとって必要な大学に入るということが重要なのでは?
私の自慢材料のための存在の息子ではないはず…私もいつだって両親にそう思われ苦しんできた(私がそう思っていただけかもしれないけれど)…私はあなたたちの自慢材料ではないんだ!と…だからそんな子育てだけはするまいと、そう願ったはずなのに、うっかりすると願ってしまい、願ってしまっては反省し…そんな自分と子育て中は何度も向かい合います。
だからこそ、息子が第一志望の大学に受からなかったとき…心のどこかでホッとした気がします。
嫌な自分にならなくてすむのだから…。
気がつけば…人は多くの期待をかけられ…そして自分自身も人に期待をかけている。
そこに「愛」は存在するのかと考えたら…私には残念ながら「思い通りにしたい」という欲求しか見えてこない。こんな風になってほしいというコントロールではないかと。
それでも…肯認学的に考えるならば…
「エゴはあっていいんだよ^^」という事なのです。
人間なのだからエゴを否定しても始まらない。自分の子供が望むものは叶えてあげたいと思うのが親心なのだから…と。
私はそんなことを考えながら…こんな風に私なりの答えを出しています。
「子供の願いはシンプルに叶えてあげたいと思う。でも…私は息子がもし今の実力よりいい大学に入っていたら自慢してしまったかもしれない。そのどちらも私であり、嫌な自分も欠点に見える自分ある。そしてどっちの自分もあっていい。そう私はそんなに人間ができていない^^」と。
期待をかけられることの辛さは知っている。十分に知っている。だからこそそんな自分にはなりたくないと思う自分もいる。
私の中に…色々な感情や思いが全部あるから…どの人の中にもあるんだ…と。
私は「期待をかける、かけられる」という行為自身は、人間らしいものかもしれないと思っているのです。
人は、自分のエゴをバネに生きることはあっても、自分以外の人のエゴによって生きられるわけではない… まして人間はそれぞれ個性があり、知性ある生き物だから…
できるなら「私が嫌だった行為」は息子にはしたくはない^^そう思う心だけは持ち続けたいと思うのです。
旅人占い師(肯認学セラピスト)セレナ
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